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しかし何故、今、論文共有サイトなのか


論文の共有サイトをプライベートベータ版として公開し、テスト運用している。
この活動に対して、「しかし何故、今、論文共有サイトなのか。」と問われることが多々ある。
電子ジャーナルが普及し、研究者個人のブログによるオープン・アーカイブ化も進行している。つい最近は日本物理学会がバックナンバーを公的機関で一部条件付き無償公開を果たしたばかりだ。

日本物理学会が,日本物理学会誌のバックナンバー(刊行後2年経過したもの全て)をCiNiiで無料公開したと発表していました。

Open Access Japan | オープンアクセスジャパン - 日本物理学会誌,バックナンバーを無料公開


また世の中は、ジャーナルの電子化に止まらず、出版物のデジタル化に価値を見いだした人々が、狂ったようにページをスキャンし、検索可能なようにインデックス化している。
グーグル・ブックサーチは身近な事例の1つであって、Universal Library Project、アマゾン等それぞれが目的と意思を明確にして猛スピードで過去の出版物をスキャンしまくっている。

Universal Library Projectという国境を越えた壮大な取り組みによって、100万冊を超える書籍がデジタル化された形で無償提供されている。中国、インド、エジプト、米国の各研究者によるこの共同プロジェクトの最終目標は、すべての出版物のデジタル化、地理的および社会経済的な境界に縛られない情報参照の実現、技術的な発展基盤の提供、出版物の時流を超えた保存にある。

Open Tech Press | オンライン図書館の蔵書が100万冊を突破


では、一体何故私如きがオープン・アーカイブなのか。

群衆の叡智、教育界のルールを破壊する可能性

改めて、であるが、そもそも論文とはどういうプロセスを経て学術誌に掲載されるのか、そしてそれはどういう意味があるのか…

論文は、研究者であれば誰でも原稿を学術誌に投稿できる。ただし、それが論文として掲載されるとは限らない。
投稿された原稿は、関連分野の専門家によって審査される。これを査読と言う。査読者は2名以上いることが普通である。査読者は原稿の内容が論文として学術誌に掲載するに値するかどうかを審査する。その査読結果をもとにして、編集者が論文としての掲載可否を判断する。投稿原稿がそのまま載る場合は少ない。査読者や編集者から著者に文章の書き直しが求められることが普通だ。そして、修正された原稿が十分と判断されるまで掲載されない。
学術誌には「格」があり、権威ある学術誌ほど投稿原稿が掲載される確率は低い。権威ある学術誌に掲載されたということは、それが学術的に重要な意義ある発見であり、かつ十分な科学的根拠がある研究であることが認められた証拠である。
自然科学であれば、『ネイチャー』や『サイエンス』は格の高い雑誌であり、ここに論文を掲載できた研究者は一流であると言えるだろう。

科学が白黒つけられないことはたくさんある(その2) | WIRED VISION


これは大学における採用、昇進の審査方法についても当てはまるだろうプロセスと云える。
しかし、査読するプロを決定するのはその上位に居るプロである。このピラミッド型ヒエラルキーを頭に描き、次の様な生々しい記事を読んだりすると、これでいいんだろうかと懸念せずにはいられない。

大学院生が急増して、行き場がなくなっている大学院(博士)ワーキングプアについて最近はよく知られるようになった。…
大概の応募者は不採用になるから、一部のあきらめる者を除いては、研究をさらに深めようとする。必死に努力をするから、学位をもち、業績は多い。外国語の論文発表もある。
応募者の業績をみていると、こんなりっぱな業績だったら、昔なら十分教授になれるのにとおもって、いまの時代の若手研究者の不運が可哀想(かわいそう)になる。
審査する老教授たちのほうはどうなのか……。

いまの年長教授たちは、大学高度成長時代にのって、ぬるま湯の大学で過ごしてきた。就職という入り口で、厳しいチェックを受けていない。それだけではない。就職してしまえば、同じ釜の飯を食べている仲間ということで、甘い審査で教授に昇進もしてきた。学位はおろか著書ひとつもないままで、大学院担当教授にさえ成りあがっている者もいる。

いまの若手研究者が首尾よく大学教員(助教や准教授)になっても、准教授や教授昇進審査がある。あるいは大学院を担当できる研究業績があるかないかの審査もある。激烈な競争をくぐりぬけた業績ある若手教員にぬるま湯世代の年長教授が審査の範を示すことはできるのかどうか……。

あらたな大学問題――関西大学教授・竹内洋 | 日経ネット関西版


自らルールを否定し、改革を断行できるか否か、問われる時代になったのではないだろうか。しかし、その勢いは内側からではなく外側から否応無しに押し寄せてきている感ある。ウェブのパワー、だ。
ウェブにおける群衆の叡智が、(権威に判断された正しさだけじゃない)皆の判断による正しさを主張することが可能になったからではないだろうか。
arXive.orgという、物理学の査読前論文を投稿できるウェブがある。ここでは権威によるしがらみ抜きに閲覧者によって評価が下されることもしばしばある。
掲載された情報が評価に値するのであれば、ブログからブログへバイラルで評価が膨らむ。誰の査読で認められたとか、どの学術誌に掲載されたという評価ではなく。
こうした評価システムは、リナックスやウィキペディアで見受けられてきたことだ。対価ではなく、仲間内からの賞賛。
なかなかよい兆しと云えるのではないだろうか?

ウェブ時代における「著作権の在り方」と「コンテンツ評価」を問題提起

この様なインターネットの技術やウェブの進化によって様変わりした「著作権の在り方」と「コンテンツ評価」に対して問題提起するのがプロジェクトの1つのテーマでもある。

僕が共感するのは、次のエントリー。特に「過去にどんな論文を発表したかではなく、今何ができるのか」という問いに即座にそして明快に答えられないと生き残れないだろう」という一文。
こうした思いを抱く方々は多数いるからこそ、オープン・コースウェアというプロジェクト等が成功し続けているのだろうけれど、も1つ殻を破ると云うか、否定や破壊を感じる動きが必要ではないかと感じているのだ。

研究者は、ジョブハンティング、プロモーション、グラントなど仕事のほぼすべての局面において、過去の業績(どんな仕事を、どのレベルのジャーナルに発表したか)で評価される。…多くの研究者がたくさんの論文を少しでもインパクトファクターの高いジャーナルに発表し、CVを良くするすることが良いポジションを得るための必要条件であると認識している。 Biomedical Science/Experimental Biologyの分野でのこの現状に反して、はるかに進歩の早いIT分野のエッジはまったく新しいルールで動き始めている。
梅田望夫の「My Life Between Silicon Valley and Japan」
インターネットによってすべての人に学ぶ可能性がひらかれ、ブログが名刺になり、ネットでの評判がパワーとなる。過去に何をなしたかではなく、いま何ができるかだけが勝負の「新しい世界」の到来........(青字:引用)
IT 業界でのこの新しいルールはそれほど遅れずにBiomedical Science/Experimental Biologyの分野でも適応されるだろう。もう米国では始まっていると考えたほうが安全かもしれない。「過去にどんな論文を発表したかではなく、今何ができるのか」という問いに即座にそして明快に答えられないと生き残れないだろう。…真実に目を背ずに今日からMind-setを根本的に変え、上の問いに答えられるように準備を始めなくてはならない。

ハーバード大学医学部留学・独立日記 ... ”過去に何をなしたかではなく、いま何ができるか”:「フューチャリスト宣言」(梅田望夫 ・茂木健一郎共著)


もう1つエントリー引用。ここに、これからの著作権の在り方やコンテンツの評価・価値についてどういう回答を用意すべきか、ヒントを垣間みることができる気がする。

…著作権という概念自体が既に時代遅れになりつつあり、可能な限り早急に制度そのものを廃止して全く新しい枠組みに移行することが必要だと考えている。
…著作権制限を厳しくしようと緩くしようと、いずれにしても、コンテンツ自体に未来が無い。
「ドリルを買う客はドリルが欲しいのではなく穴が欲しいのだ」と言うマーケティングの金言があるが、コンテンツを求める客にも同じことが言える。消費者が本当に求めているのはコンテンツでは無い。
にも関わらずコンテンツ自体に価値があると未だに信じ込んでいる権利者側は頭が悪い。

Rauru Blog » Blog Archive » コンテンツの終焉

これは正にタイトル通り「コンテンツの終焉」を意味するが、コンテンツで飯を食ってきた人々にとってはたまったもんじゃないだろう。じゃぁ、どうすりゃ飯食えるのか。

…音楽を無料で(時には違法に?)ダウンロードしたとしても、本当に心を動かされれば「ライブも見てみたい!」となるように、楽しい授業を見たら「この先生の授業に参加してみたい、著作を読んでみたい」となるはずですよね。…
僕はピーター・ガブリエルというアーティストが好きなのですが、ある時彼が「海賊版CDがケニアで出回っていますが、いいんですか?」と聞かれたとき、こう答えたそうです。
「いいことを聞いた。ケニアに行ってライブをしよう」
つまり複製が可能な時代には、複製できないものの価値が上がっていくわけです。
インターネットであらゆる知識がやりとりできる時代、「授業」を限られた人しか見ることのできない、一過性のコンテンツにしておくのはまったくバカげたことなのでしょう。積極的に公開して、「ほら、うちの学校にくればこれが生で体験できるんだよ」ということをアピールした方が、得られる価値は大きいに違いありません。

POLAR BEAR BLOG: 2008年にブレイクするコンテンツ=学校の授業?


米国では、ビジネススクールが授業料値下げを相次ぎ、授業すらオープン・コースウェアやユーチューブやiTunesストアで無料公開し出した。
少子化で苦しむ我が国においても、東京大学をはじめとする幾つかが後追いしている。過去に蓄積されたコンテンツで魅力を訴え、競合より優れた教育を提供でいるとセックスアピールしている様だ。
(イメージ先行の広告や、意味のない偏差値ランキング、それらによる偽のブランド力によって他者から造り上げられた評価に基づいて大学を選ぶなんて、もう終わりにしよう)

コピーごときで収入の機会を奪われるような脆弱なビジネスモデルの方に問題がある。

Rauru Blog » Blog Archive » コンテンツの終焉

こういった問題提起に対し、早々に新しいビジネスモデルの構築に知恵を絞った人が次の時代に勝利を得る、ということなのか。

音楽業界では、プリンスが楽曲は無償配布してライブで稼ぐと公言していた。
デビッド・ボウイは自身を証券化して売り出し、証券保有者にライブ・チケットを優先的に割り当ててチケット価格にプレミアムを乗せることに成功した。
P2Pファイル交換技術とブロードバンド、そしてiPodをはじめとしたメディアプレィヤーの普及。DRMコピーワンスといった著作権管理とそれに反対する消費者…
時代の行く末を案じて出した結論。コンテンツには価値がないことを認め、それを土台とする新たな価値創造という取り組み。

…デジタル・マルチメディアの環境の下では、1つの出力フォーマットを著作権で守ることに腐心するより、若干の違法コピーには目をつぶり、そこで得たポピュラリティを利用して、他のメディアで稼ぐことを工夫した方が賢い。つまりワン・ソース・マルチ・ユースの発想でいくべきであり、またそれ以外のビジネス・モデルは考え難い。

クリエイティブ・コモンズ―デジタル時代の知的財産権(一三九頁)

的を得ている。このことを肝に銘じて模索したい。
ピーター・ガブリエル、プリンス、デビッド・ボウイといった既に富と名声を得た人々でなく、無名のハイクオリティでスマート(賢い)な音楽家なり技術者なり科学者が、じき新たな発想を持って出現することだろう。

教育を、オープン!

著作権付きコンテンツの囲い込み論には食傷気味になってきた。だからこそこうしたニュースには僅かだが将来を期待させる何かを感じさせてくれる。

Council of Science Editors (科学雑誌編集者会議)のキャンペーン「Global Theme Issue on Poverty and Human Development」…に参加するNature, PLoSなどを含めた235の科学・医学雑誌に掲載された(される)すべてのGlobal Povertyに関する記事(原著論文、レビュー、エディトリアル等)はオープンアクセスとなり、リンクににより「Global Theme Issue on Poverty and Human Development」のサイトに集積されます。これにより今までに例をみない世界最大規模のオープンアクセス可能なGlobal Povertyに関する科学オンラインリソースが形成され、パブリック・アウエアネスの促進と、今後の研究をサポートする重要な基礎固めができると期待されます。

日頃は科学雑誌を”インパクト・ファクター”として見がちですが、オープン・アクセスとリンクにより地球規模の問題に科学者が貢献できるフレームワークとしての重要な機能も今後担っていくのでしょう。

ハーバード大学医学部留学・独立日記 ... 科学者・科学雑誌・オープンアクセスが貧困問題 (Global Poverty) に対してできること

1つ1つの研究成果には、それ自体もの凄く価値あるものだと思う。全ての人々に情報が行き届けば、の話だが。
著作権を守り、価値ある情報を見たいならIDとパスワードを得よ。その為には金を出せ。出さねば貴重なコンテンツにはアクセスさせぬ。…これじゃぁ何の意味もない。
だからこそ、オープンアクセス可能なキャンペーンが、最大効果を発揮できるよう引き続き展開されることを期待する。
また、こうした教育のオープン化効果を期待して取り組んで成果を出している一つに、スタンフォード大学法律大学院のローレンス・レッシグ教授が提唱して設立5周年を迎えたクリエイティブ・コモンズのサイエンス・コモンズやccラーンが挙げられる。

…オープン教育の中には、リナックスなどのオープン・ソース(ソース・コードを公開することによって、コードの書き方を誰でも学べる、という意味では、オープン教育の先駆けであるともいえますね。)やウィキペディア(みなの知識を集め、教えあうという意味では教育です)などが例として挙げられています。…
オープン教育は、情報をオープンにすることで、教育にも貢献しつつ、いまや、学習を超えて、社会の広い意味での学習や進歩を支える、ということにも視野を置いています。

Creative Commons Japan - クリエイティブ・コモンズ・ジャパン - news: iSummit報告:オープン教育

こうして、2007年は教育界にとって、オープン化のプロジェクトが花咲いた年だったと感じる。いや、まだまだ芽が出たばかりだろうか。
ハードウェアの進展についても朗報が続いた昨年末だった。OLPCのXOやアマゾンのKindle、アップルのiPhoneといった破壊的なハードウェアが出現した。相変わらずムーアの法則に支配され続けているテクノロジーの進展成果だ。こうしたコンピュータがブロードバンドとつながれば、情報の無料にアクセスし、それを元に新たな価値がどんどん創りだされるといった良きスパイラルが想像できる。インターネット上はまさに情報の海で、1つ1つのコンテンツに価値を付けようという”もがき”は無視され、価値あるコンテンツを発掘した人と、その価値創造者が勝利を得る、という構造をも想像できる。
教育や科学は、まさにこれからますます新しい価値を創出する!環境は整いつつあるってワケだ!

…学術情報流通は今後どうなっていくのか、もしくはどのような方向に進むべきか、学術情報流通の有るべき姿、といった展望・考察・提言などは本書にはほとんど書かれていない。

その辺りについては、倉田先生が答えを出すというよりも、本書をベースに図書館・情報学の研究者や、図書館の現場で学術情報流通に携わる人たちが考えていくべきことかもしれない。

「学術情報流通とオープンアクセス」 - Copy & Copyright Diary

我々のプロジェクトが始動した直後出版された書籍に対し、1つの問題提起として生み出したウェブサービス
学術情報に近い者たち一人ひとりが真剣に「どうあるべきか」と自問して、一歩先へ踏み出す勇気と努力が必要ではないか。例え、何の効果も発揮できなくとも、何かしらやってみる価値や失敗から得る教訓だってあるだろう。


教育コンテンツの著作権と価値について見直し、新たなコミュニティを形成したい。
新しいテクノロジーを導入して、遊び心溢れるウェブサービスにしたい。
その上で、既存知識をベースとした新規性を創出するプラットフォームとなる。こんな夢を実現したいと思っています。

2008年、オープン・アーカイブは新しい機能を備え、新しいデザインで出発します。